いつだか、陶芸で、
おじいちゃんに「抹茶茶碗を作ってみろ」と言われました。
「目のかけてやれるうちにやってみな」と。

抹茶茶碗というのは、私にとっては敷居の高いもので、
私になんか作れるものじゃないと思っていました。
何年か前に茶碗を作りたいと言っているおばさんに
「おめぇなんかが作るには早ぇよぉ」みたいなことを言っていたのも聞こえてたし。

けど、おじいちゃんももう高齢です。
まじめな話、あとどれだけ一緒にできるのか、わかりません。
この夏は暑かったから、8月はおじいちゃんに会っていません。
おうちにはいるんだけど、教室のほうに出てこなかった。
けど、暑いから呼ぶこともできなかった。

9月になってからは、今までみたいに元気に教室にいてくれます。
だから、抹茶茶碗に挑戦し始めました。
おじいちゃんがいなくなっちゃうことなんて考えられないし、
私が覚えられることなんて少ないけれど、
頂ける技術も知恵も考え方も、もらっておかなければ。

ここのところ、自分である程度できるようになった、と考えていいのかはわからないけれど、
おじいちゃんに手を出してもらうことがなかったので、
久しぶりにGOD HANDの技を見ました。
私じゃ、どうも格好がつかないんだけど、
おじいちゃんの手にかかるとあっという間にしゅっとした器になる。

陶芸やっていると、お茶に行きつきます。
きっと、お花をやっていても、お茶に行きつくんだろうな。
お茶の道具は、それだけ長いこと受け継がれている伝統であり文化だから、
あれこれ決まりがあるかと思えば、あるようでなかったりもします。
結局のところ、センスの問題です。さすが総合芸術。

茶碗は、お茶を点てるのに使い、お茶を飲むのにも使う、器であり茶道具でもあります。
大きすぎてもいけない、小さすぎてもいけない。
大きいよりは小さいほうがいいのかと思っていたけど、それだと「風格がでない」
重すぎてもいけない、軽すぎてもいけない。

名器といわれるほとんどが、決して規則的な造形ではなく、
もっと言えば、傾いてたり波打ってたりもします。
その、線対称ではない造形を美しいと感じることができる日本人のセンスは、
改めて素晴らしいと思います。
それはしかし、定規で引けない線なのです。機械的に作ったらなんの面白味もない。
同じものは2つとしてないのです。
どんなに計算しても作れない美しさ。
日本独特の奥深さです。
偉そうな能書きを垂れることできる分ではないけれど、
そういう日本人の美的感覚に少しでも触れ、驚きと感銘を受けてばかりです。


「軽いものは重く 重いものは軽く」


軽い器は重そうに、 重い器は軽そうに、 扱うのだろうです。
軽いものを軽く扱ってしまうと、適当に扱っているように見えてしまう。
器のみならず、器を扱う者としても、それに合った品性を備えていないといけない。

けど、だからといって、手が出ないほど遠いものではない、ともいえるみたいです。
いや、本格的にお茶をやっている人の品格とは違うだろうけど。
利休の洒落っ気というものも、しっかりと生きているんだね。


長次郎の茶碗の縁が波打っていて、その話をしていたら
それも五山なんだって。
えっと、正確になんて言ってたか忘れちゃったけど。
それも景色。
高台もまた景色。

ぞくっとしちゃった。
高台に景色を見るのかぁ、と。
なんて素敵なんだろう。
素晴らしい目をしているよね。
高台っていうのは、お茶碗の裏というか、下のところ、ちょっと高くなっている部分を言って、
せいぜい直径5センチくらい。
そこに景色を見る。
圧倒的過ぎて、頭ガーンと打つくらいの衝撃があったなぁ。
「昔の人ってロマンチックですね」っておじいちゃんに言ったら
「そうかもしれねぇなぁ~」って言ってた。


本当に、陶芸を通して、おじいちゃんからいろんな考え方と知恵を授けてもらっていると思う。
私なんて、まだまだ遠く及ばないけれど、
こうして出合うことができた、日本の芸術や歴史は、自分の体に刻まなければいけない。

古事記も読まなくちゃいけないけど、利休についてもお勉強しないとなぁ。

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